(マロニエ)
M女という動物も不思議なものだが、負けず劣らず、S男という動物も不思議なものだ。
プラタナスに出してきた。精子だ。
SMがセックスの一バリエーションのように感じていた時代は、「出す」事が目的であった。出す一瞬の為には、ありとあらゆる努力も惜しまないといっていいほど、それは最終目的であった。
今はそれが違う。自身のS心が満足するのが目標だ。
「出す」と人格が入れ替わる、まるで自己喪失。と自身を評した男を知っている。それは極端な例として、思い当たる節がある。「出す」と腑抜けになる。
尻子玉(Wikipediaで河童を参照)という言葉があるが、プラタナスは尻子玉ならぬ「S子玉」が抜けたと、面白そうに、満足そうに、が、半分、つまらなそうに言う。(笑)
というのは、10代のフレッシュ世代ならいざ知らず、腑抜けになる(=S子玉が抜ける)と、その日はそこから抜け出せない。(笑)
が、ではそれで、私は満足かというとそうでもない。
「出し」たのだから、満足するはずなのだが、どうも違うのだ。
時系列を読み返すと、私はかなり酷い^^;
実は、そういう状態に至るには二つのエンジンが必要だ。
一つは、私自身のエンジン。「S子玉」
もう一つは、プラタナスのエンジン。「M子玉」とでも言っておこうか。つまり二つのエンジンの相乗効果があってこそ、ああいう心境になるし、酷い事もしたくなる。
「M子玉」はどうも、枯れる事の無い湧き出る泉のようである。(笑)
が、問題は、我がほう「S子玉」。
これは、「出す」と抜けてしまう。(苦笑)
では、「出せ」ば、S心が満足するのかといえば、それは違う。全然別物なのだ。S心は満足していない。欲求不満。
それなのに、出して、「S子玉」が抜けてしまうと、腑抜けになる。
満足していないのに腑抜けになる。なんとも中途半端。
ここら辺の感覚を言葉で伝えるのは難しい。特に女性には理解不能かもしれない。
かくして、S心を満足させるにはどうしたらいいか。
それは、「出さない」事である。(笑)
出さなければ、「S子玉」は抜けない。
つまり、「出し」てはいけないのだ。
精子は、出した(抜いた)瞬間に価値が無くなる伝家の宝刀のようである。伝家の宝刀はもったいぶって床の間に飾っておくに限る。抜いたらなまくらでしかないのだ。(笑)
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